5月、6月、大谷主宰出席の東京句会に参加。

句会のときはとれなかったが、時間がたってからあらためて読むと、なるほどと思う句がある。

  新緑の底に駅あり御茶の水     神谷宣行

「新緑」という季語と「御茶の水」という駅名がうまく響き合っている感じがしてくる。〈新緑の上に駅あり御茶の水〉だと、JRの駅のプラットフォームなるが、この句は地下鉄の御茶の水駅。実は、自分もJRのプラットフォームでこの句と同じような着想で句を作っていた。そのときの現実感がありすぎたせいで、とれなかったのではないかと思う。

  葬りし猫が牡丹となりし夜     北島正和

こういう句をとるのが難しい。メス猫であれば、死んで化けることもできそうだし、牡丹という花は、どこか植物を越えた動物的なものを感じなくもない。たしかに、猫も、牡丹も動かなそうである。ただ時間をおいてみると、下五を「なりし夜」としたところがよかったのではないかと思う。猫が牡丹になったといっただけでは、心に残らない。そんな夜だった、というところに感慨が潜んでいる。

  遊牧の民のテントで昼寝覚     わたなべかよ

選句でこの句が回ってきたとき、「シェルタリング・スカイ」という映画(ポール・ボウルズの小説が原作)のイメージがばっと出てきてしまって、あの映画のイメージと「昼寝覚」は合わないと思ってしまった。あとあと思うと、あの映画の後半も昼寝のなかの出来事のようにも思えてくるのだが。いずれにしても、勝手な思い込みであるには違いない。それはわかっているのだが、イメージというものは、一度頭に描いてしまうとなかなか払えなくなってしまうのでやっかいである。

  砂丘ゆくひとり跣になればみな   金澤道子

句会のとき、この句について主宰から「集団心理をうまく詠んでいる」という講評があった。たしかに、それは自分にもよくわかった。わかったからこそ、とれなかった。要するに集団心理というものに拒否反応をおこしたのである。この句は集団心理の一現象を肯定も否定もしてない。ただ不思議さを詠んだだけである。あとから読むとわかるのだが、それではあとの祭り。

俳句というものは、基本的に「手ぶら」で詠むべきだと思っているのだが、選句もまた同じなのかもしれない。

関根千方記

 

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