7月17日、長谷川前主宰の京都祇園会句会に参加。今年の祇園祭、前祭の山鉾巡行は5年ぶりの日曜開催とあって、昨年より12万5千人多い19万人が見物したとのこと。私は京都に魅せられてから長年経つが、祇園祭は初体験だ。

家のことそこそこにして鉾立てへ  奈央子

私の句で恐縮だが、直しを頂いたのでご紹介する。原句は「家のことそこそこにして鉾立てに」。

助詞の「に」を「へ」に直して頂いたのだが、この方が批判精神が強くなるとのこと。どちらも方向を示す助詞ではあるが、特に「へ」は方向を強調する際に使われる。家に残った者の、出掛けた者に対する批判精神も、より一層際立った。十七音で、読み手を一瞬にして、こちらの世界に引き込むよう、神経を研ぎ澄ませて一字一字産み出さねばならない。たった一字で句が台無しになる怖さを改めて感じた。

特選・入選句から
鉾曳きのわらじちぎれて花の塵 忠雄
身にあまる刀抜いたり鉾の稚児 まき
山鉾の名を次々と当つる子よ 久美

祇園祭の山鉾は「動く美術館」と形容されるだけあり、いずれも豪華な懸想品でまとわれていた。それらは京都、日本のものだけではなく、ペルシャ製の絨毯、ベルギー製のタペストリー、インド刺繍の胴懸、あるいは16世紀のヨーロッパのものまであるとのこと。
中には、今年生誕300年の伊藤若冲のものもあった。今回新調された、長刀鉾の背面を飾る装飾品である「見送(みおくり)」というものだ。句会でも、若冲を詠んだ句がいくつか見受けられたが、長谷川前主宰からは「きちんと言い当てているのならいいが、流行しているからと、ただ詠んだだけではだめ」との忠告があった。はやりものは今たたえられているだけかもしれない。目の前にあるから詠むのではなく、自分がそのものの本質を見極めたものを俳句に詠まねばならない。

七月に亡くなった永六輔さんは俳句を嗜むことでも有名だったが、歳時記を持たなかったという。季語の意味はもちろん理解したうえで、書に頼らず、心の目でそのものをみつめてきたのではないか。殊に言葉を大切にしてきた永さんらしい。

祇園祭については、いろいろな文献や歳時記を読み漁った。が、いくら情報を頭に詰め込んでも、肌で感じ、自分の言葉にしたものでなければ「俳句」にはならない。宵山も、粽も、鉾も、辻回しも、生稚児も、自分の目で実際に見て、脈々と受け継いできた歴史を肌で感じることで、やっとそれらを「知る」こととなった。

今回の句会では、一語の重み、詠む対象物について、じっくりと考えさせられた。

加えて、祇園祭を経験せずに「京都好き」と言ってきたことを心から恥ずかしく感じた。これから「京都好き」にさらに拍車をかけることになりそうだ。

辻 奈央子

 

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