句会日記10
1月12日、大谷主宰出席の東京句会に参加。
本年度は、古志設立20周年という記念の年。その年最初の初の東京句会。句会場を新たに青山のこどもの城に移したのと、鍛錬句会のあとということもあり、若干少なかったが、それでも32名が参加。
ほのぼのと腹に臍ある初湯かな 飛岡光枝
しみじみと、ではなく、ほのぼのと。初湯につかりながら、産湯を感じているのだろうか。なにげないのに、深い感じが伝わってくる。
そういえば、芭蕉の〈旧里や臍の緒に泣く年の暮〉という句がある。加藤楸邨がこの芭蕉の句について、「泣く」は表現過剰あるいは感傷表現ではないかと思うかもしれないが、そうではなく、この悲しみはおしつけられるようなものだとどこかで書いていた。
ふるさとは今寒鰤のうまき頃 柏田浪雅
故郷をたたえている句。ただ、この句も漂泊感を前提にして読むと味わいがかわってくる。さらっと詠んだ句が深みをもつときというのは、こういう句をいうのではないだろうか。
泥葱の束持たさるる帰京かな 真板道夫
心は読み手の自由にしてあるところがいいと主宰の評。うれしいのか、さみしいのか、うっとしいのか、アンビバレントな心の様子がうかがえる。泥葱という季語にすべてがたくされている。
考えてみれば、芭蕉の句の「泣く」も行為(動き)であって、悲しくて泣くのか、うれしくて泣くのか、どんな気持ちで泣くのかは、書かれていない。その気持ちは、読者にゆだねられている。加藤楸邨がいう「悲しみ」というのも、「喜び」であってもよいような複雑なものであって、むしろ、それが「おしつけられる」ような衝動であるというところがポイントなのだろう。
今回は、この三人の句が目立っていた。なかでも、柏田さんが絶好調だった。東京句会はなぜか最近、毎月主役が入れ替わっている。来月は誰が主役になるか。頑張らないと。
関根千方