句会日記11
1月19日、長谷川前主宰出席の鎌倉句会に参加。
鎌倉の初句会。参加者46人。席題「寒」と「炬燵」を含め、五句出五句選の一座。
夜中についつい小説にはまってしまい、眠い目をこすりつつ参加する。
ひなたぼこここにも古き仏たち 小寺敬子
縁側か公園のベンチか、ご老人が並んで日向ぼこをしている。本人もそのうちの一人であろう。たいへん温かな感じがする。芭蕉の〈菊の香やならには古き仏達〉を下敷きに、まったくことなった世界を読まれている。
この句は、道ばたに見捨てられたような、古ぼけた仏像たちとしても読めるかと思ったのだが、そういうあいまいな読みをするよりも、自分はどう読むか、はっきりさせて選をすべきと反省。
今回、選についても反省するところが大きかった。せっかく感じとったものを、あとづけの意識が打ち消してしまう。自分の頭で説明のつきやすい、つまり自分の力におさまりそうなものをどこかでのこそうとしてしているのではないかと思う。結局、自分の俳句の力がそのまま選の力になっているのだろう。やはり自分の句が変わっていかなければ、選も変わってこない。
以下、前主宰のお話から深く心にのこったことをまとめておく。
一、題材
題材は何でも詠める。俳句に詠めない題材というものはない。この題材では俳句に詠めない、と思ってしまうのはよくない。詠めないのは、俳句の力がないから。
二、発想
発想の転換が大事、頭をやわらかく。頭の柔らかさに年齢は関係がない。自分の思いにとらわれると自縄自縛におちいってしまう。さまざまな角度からみられるように。
三、描写
描写とは言葉で描くこと。句の場面や人物の姿にあわせて言葉を選ぶこと。俳人だけに通じる句ではなく、広々としたところで通じる句を詠むべき。描写をいいかげんにしていると他人の句に似てくる。
お話を聞きながら、前主宰の俳句への熱をひしひしと感じた。技術も大事であるが、このように大きな心持ちで、俳句を読んで行こうと思った。
鎌倉句会は、二月は龍太忌、三月は飴山忌をかかげての句会となる。龍太の死から俳句の世界は柱を失ったままだと前主宰の弁があった。しっかり俳句の根底をみなおしていきたい。
関根千方記